私が夢を追いかける、原動力。
こんばんは、りにょ〜ん(吉田梨乃)です。
第二弾の記事は、 「私が夢を追いかける原動力」について書きたいと思います。
夢を持つに至る経緯には、一人ひとり異なる原体験があります。
その人の成し遂げたい夢は、 ある日突然生まれるものではありません。
人の価値観や夢を知った時、その人の「過去」には一体何があったのかを私は必ず聞きます。
なぜなら、ストーリーを知ったことで初めてその人の「今」を深く理解し、"応援したい"という気持ち、つまり「共感」へと変わるからです。
そんな私が「人権侵害のない世界を実現する」という夢を持つことになったきっかけは、高校2年生の時。全日本高校模擬国連大会への出場と、カンボジアワークキャンプへの参加でした。
カンボジア語を話してみるものの、全く通じていない様子。
大学生になった今、国際協力の活動をしてきて(というか自分のやりたいことをしてきたつもりだが)「梨乃って行動力あるよね」とか「意識高いよね」などと言われることがたまにあります。
しかし、私はその言葉に対して、いつも「そんなことない。」と答えてしまいます。
それは照れているわけでも謙虚に見せているわけでもなく、私の自己認識では自分の姿は全くの正反対だと思っているからです。
少し遡る高校生の時の私はというと、普通の学校生活を過ごすただのJKでした。
頭の中はいつもふざけたことと大ファンだったOne Directionのことでいっぱい。
クラスメイトと。中央のダブルピースをしているのが私。(若い)
東京の田舎の方にある啓明学園という名の学校に、小学校から高校まで12年間も通い、ビニールハウスのような温室の中でぬくぬくと育っていました。
グローバル教育に力を入れ、帰国生が4割を占める国際的で多様性を尊重する学校でもあり、素敵な友達や先生方に恵まれ、毎日が本当に楽しく幸せな生活でした。
私の家は特別裕福なわけではなくても、財政面で特に苦労はしてきませんでした。
いじめを受けたことも不登校になったこともなく、「挫折」や「失敗」を味わったこともありません。
そんな環境を当たり前に労なくして享受した私は、ものすごく甘い考えかもしれないけれど、そんな自分をコンプレックスに思うようになりました。
悪く言えば、「刺激のない生活」を送ってきていたから。
いかに自分が狭い世界の中で生き、自分の意志を持たずに生活していたのかを思い知ったのです。
そんな歯がゆい思いをしたきっかけが、全日本高校模擬国連大会での経験でした。
優勝したらNYにいけると記載されたポスターが目に付き、もはや「模擬国連」という言葉さえ知らないレベルで「NY行ったる!」という謎の意気込みと勢いとノリで応募してみました。
結果、奇跡的に厳しい一次選考(選考書類の作成は真面目にやりました)を通り抜け、いきなり全国の高校生とともに国際会議を模擬する大会に出場することになりました。
初めて会う人ばかりに囲まれる中、12年間同じ学校に居続けた私は「コミュ症」「人見知り」の2つを大いに発揮してしまいました。
同じ大会に出場する周りの高校生は、名だたる進学校ばかり。
学校で模擬国連部に所属し、議論を日課としている頭の切れて経験値の高い学生ばかりでした。
(なぜ私はここに居るのだろう?と自問さえしてしまう状況)
パートナーの友達と毎日準備をして、人生で一番頭を使ったくらいの力を尽くしてある程度の自信を持って挑んだ大会だったものの、もはや彼らと同じ土俵に立つことも許されず、悔しく歯がゆい思いをすることになりました。
しかし、その分学んだことも数え切れないほどありました。
「How to feed the world in 2050」という題で、世界の食糧問題(食料安全保障)について議論したのですが、実際に一国の大使として国際会議を模擬する経験ができたことは、日頃の学校生活では体感ないようなことばかりで全てが刺激的で、新鮮でした。
この大会での出場をきっかけに、遠い世界の物事が、自分の中に落とし込めたような身近なものへと意識がシフトしていったような感覚になりました。この時私は、
「ああ、世界って結構繋がってるんだ。」
と気づいたのです。
特に私はフィリピン大使を担当していたので、先進国・新興国・途上国という経済発展のレベルによって直面する問題や力関係の現れを知り、どの国も満足のいく一つの「決議案」を作り上げることの困難さを嫌なほど実感しました。
全国の高校生(総勢164名)との2日間に渡り、議論を交わした。
この大会を準備するためのリサーチ段階で、世界の現状に関する情報を多くインプットしました。その中で、「6秒に1人が栄養不足で命を落としている世界」と、「日本に生まれ労なくして得た私の恵まれた環境」のとてつもなく大きな「差異」を痛いほど感じさせられました。生まれた場所によって命の価値がなぜ不平等に扱われなければならないのだろうか。そして、自分に投げかけました。
「私は今後この世界の現実にどう関わっていくべきなのだろうか?」
大会をきっかけに自分と世界の接点を持って以来、私はそれまで興味がなく他人事のようにまで捉えていた世界の問題、そしてその解決のための手段として国際協力の世界に関心を持つようになりました。
自分が恵まれていたからこそ、こんなことを考える機会を得られたかもしれないし、 「挫折」や「失敗」を経験してこなかった自分に"世界の現状に立ち向かう資格などない"とさえ思うこともありました。
だけど、私にはどうしても許せない 怒りがありました。
私はその気持ちを原動力に国際協力の世界に挑戦している、今の自分の姿があります。
実は大会に参加する前の夏休みに、学校が主催するカンボジアワークキャンプに参加していました。(最初カンボジアの位置を知らず、アフリカにある国だと勘違いしていたことは秘密です。)
小学校でのボランティア。子供達と一緒に折り紙を楽しむ。(右が私)
参加したこのワークキャンプは、カンボジアのお母さんとのフェアトレードプロジェクトの一貫で、NPOの方々のツアーに同行して小学校で運動会や、交流を行うものでした。
子供達の笑顔。Photo by Rino Yoshida
初めて足を踏み入れた「途上国」そして、東南アジアの世界は見るもの嗅ぐもの聞こえるもの、全てが私の今までいた世界とは異なっていました。
そして、この国の過去に起きた悲しい歴史も。
戦後70年間、平和を貫いてきた日本で行われる平和学習は、受けた生徒が「今の戦争のない平和な時代に生まれてよかった。」という結末で終わるように感じられます。
(偏った主観であったら、申し訳ありません)
学校の平和学習の一環として、修学旅行で広島・沖縄を訪れ、戦争体験者の話や資料館に足を運んだからこそ、戦争の悲惨さを直で学ぶことで、戦争のない平和な時代をこれからも築いていく次世代としての「責任感」が芽生えます。
それとともに、どこかそんな時代に生まれたことへの「感謝」の気持ちを、私は心の中に抱いていたように思います。
しかし、たった30年前に大虐殺が行われたカンボジアの歴史を知った時、
「果たして今私の生きている時代が平和なのだろうか?」
あまりにも無知であった高校生の私は、そう自分に投げかけざるをえませんでした。
同時に今の世界の現状をみた時、今でも戦争は絶えない国が存在し、今まさにこの瞬間も戦火の下で命を落とす人々またはその危機に追いやられている人々が存在します。
高校3年生の時、1994年に100日間で100万人近くが殺されたアフリカの小国ルワンダ・ブルンジでの大虐殺を知った時も、私は衝撃を受けました。そして知ったのです。
「この世界は決して平和ではない。」
と。映画『ホテルルワンダ』の中に、有名なこんなワンシーンがあります。
主人公のルワンダ人・ポールが、虐殺映像を撮影するカメラマンに対して
「この映像を世界の人々がみれば、世界各国の人が救援してくれる。」と言った。
しかし苦渋な表情で、カメラマンはポールに向かってこう答える。
「いや、世界の人々はあの映像を観て、"怖いね"というだけでディナーを続けるよ。」と。
映画『ホテルルワンダ』より。
戦争教育を受けた日本の中学生・高校生が「自分は戦争のない今の平和な時代に生まれたことに感謝する。」という結末のままであっていいのだろうか。
その先の、「どうしたら今も戦争が終わらない時代で平和を作るために行動していけるか」を考えることにあるのではないかと、私はこの時強く思いました。
だって、私もディナーを続けていた一人だったから。
自分のことだけを考え、将来の目標も何も定まらないまま、自分の意志を持たずに生き、守られた狭い世界の限られたコミュニティの中で満足し、苦労なくこの環境を享受してきたから。
私は、戦火の人々と同じ人間としての命を持つ者であることは変わりはないのに、なぜ、国が違うだけで一人一人の権利が脅かされる世界が存在しなければならないのだろうか。なぜ、罪なき命が失われなければならないのだろうか。なぜ、遠い出来事として私は他人事に捉えてしまっていたのだろうか。こんなにも命が失われているのに。
大虐殺の歴史を知り、湧いたこの 怒りの全てが私が国際協力の世界に挑戦する原動力となりました。
だからこそ「人権侵害のない世界を実現する」という志を持って、私はできる限りのことをしていきたい。そう強く決心しました。
では、私がなぜここまで「人権」にこだわるのか。
次回の記事で深堀ります。
To be continued.
吉田 梨乃