Rhino Book

国際協力師を目指す大学生の奮闘記。国際人権NGOでインターンシップ中。

無知と無関心。世界人権デーに何を思うか。

 

無知、無関心は怖いものだ。

 

12/10は国連が定めた世界人権デーだった。

69年前、「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ尊厳と権利について平等である」という条文からはじまる世界人権宣言が採択された日だ。

 

人権は「人間である」ただそれだけの理由で、皆に平等に与えられた権利。

 

ナチスホロコーストでは600万人が、ルワンダのジェノサイドでは100万人が。

第一次、第二次世界大戦では何千万人もの人々が犠牲になった。

今もソマリアコンゴ、シリア、内戦が続く地で現在もなお、権利を侵害されている人がいる。

 

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戦争終結から70年、核兵器禁止条約が制定されたのは「2017年7月」今年の話だ。

日本はその条約に「反対」票を投じた。被爆国なのに。

 

21世紀にもなお、平和のために立ち上がり、声をあげなければいけない人がいる。 

それほど世界は歴史から学んでいない証なのかもしれない。

 人類は、同じ過ちをなんど繰り返すのだろうか。

 

貧困や難民を生み出す戦争や政治システムは、「人権」の立場から見ると明らかな重大犯罪であるとされている。

 でも、問題の最大の敵は人々の無知、無関心にあると、私は思う。

 

ノーベル平和賞を受賞した作家のエリー・ウイゼールは自分自身のアウシュビッツ収容所での非人道的な体験を踏まえて、

 

「我々が後世に伝えるべき真の教訓は、アウシュビッツで殺された人々が殺人者の犠牲であったということだけでなく、無関心な多くの人々の犠牲者でもあったということ。さらに、無関心な世界の犠牲者であったということなのだ。」

 

と語っている。

 

私は純日本人というマジョリティの立場として日本社会に生まれ、先進国で何不自由なく暮らすことのできる特権(=労なくして得た優位性)を持っている。

 

世界や日本社会のマイノリティが置かれている現状に目をつむっていたとしても、別に不利益は被らない。

 

ニュースに関心を持たなくたって、日常が脅かされることはほとんどない。

また、明日も明後日も変わらず同じ平和な「日常」が続いていくだけ。

電車に乗って学校に通い、バイトに行き、身の回りの人と笑い、暖かいベットの中で1日を終える。

 

関心を持っても持たなくても明日も明後日も美味しいディナーを続けられるんだ。

 

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映画『ホテル・ルワンダ』より

 

別にそれは悪いことではないのかもしれない。

 でも私の置かれているこの状況は、まさに世界の縮図である。

 

無知、無関心から脱却するために

 

話は変わるが、私は今期「日本の人種差別」について研究してきた。

人権の柱とも言われる人種差別は、決してアメリカだけの問題ではなく日本にも存在する。制度レベルでも、人々の心の中にもマイノリティへの差別が存在している。

 

実際に日本政府は、他の外国人学校は認めている「高校無償化」を在日コリアンが通う朝鮮学校だけ除外している。また彼らに向けたヘイトスピーチも現在もなお横行しており、部落差別や在日外国人への差別も現在進行形だ。

 

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先日参加した「朝鮮学校見学会」

 

自分の身の回りに目を向けても、「権利」を脅かされている人がいることを身をもって学んだ。

日本に人種差別なんて存在するの?とさえ思っていた私が無知、無関心から脱却でき、何が「おかしい」ことなのかを知り、行動に移すことができた。

 

しかし、被差別者である当事者(マイノリティ)だけが「おかしい」と声をあげなければいけない現状が存在する。変わるべきは「マジョリティ」なのに。

 

日本社会のこの例は関係ないと思われるかもしれない。だけれど、日本社会のマイノリティをめぐる問題は、世界レベルの問題と全く同じであると思う。

 

の問題が解決されない最大の原因は、マジョリティの「無知」と「無関心」であるからだ。

 

世界レベルでいえば、変わるべきはマジョリティ。つまり、「先進国」に住む私たちなのだ。 

「人権」というものは、一人一人の自覚があってこそ初めて意味を成す。

 

何ができるか?

 

「世界に関心を持とう。みんなで行動しよう。」

そんな大きなことを最初から言わないし、言う資格など私にはない。

 

だけれど、自分自身と世界を見つめる機会を持つことは誰でも簡単にできる。

今の時代、メディアは報じないけれども毎日触れる携帯の端末を使って、世界に目を一瞬でも向ければ、自分の置かれている状況との「差異」を感じられる。

 

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TwitterFacebook、様々なツールで世界と気軽に”繋がれ”、情報の選択も自分でできる。SNSは決して友人の近況を見るためだけに使わなければいけないわけではない。

誰でも情報を手に入れ、自らが発信の主体となれる。

その影響力で世界は少しずつ変わってきていると感じるのは、私だけだろうか。

 

Youtubeで好きなアーティストのミュージックビデオを見るついでに、国連やNGOが制作した映像を、1分でもいいから見ればいいかもしれない。

 

そこに「怒り」を感じられたならば、その感情に素直になってみればいいかもしれない。それが結果的に行動に、無意識のうちに移っているはずだ。

 

偉そうなことは言えない学部生の私だからこそ、自分の気持ちに素直になって投稿する。

そして私はこれからも世界と繋がれるSNSを使って、情報にアンテナを張り、発信し続けたいと思う。

 

世界人権デーにあなたは何を思う?

 

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to be continued.

吉田梨乃

国際協力って、「協力」してる?

こんにちは!久しぶりの更新となりました。

りにょ〜ん(吉田梨乃)です。

 

11月は大学を掲げて行われたダイバーシティウィークの準備に尽力していました。(それについては後日書こうと思います。)

 

2年生になり、なんとなく「コレだ!」という自分の方向性が決まり、国際協力を手段として「人権」に焦点を当てた課題に取り組みたいと思っている私・・・

実は、最近までずっと、国際協力でいう「開発援助」や「途上国支援」と言われるものに関心を持ち、将来は文化人類学者かNGO職員になって、とにかくフィールドで現地の人と一緒に草の根レベルの支援に携わりたいと漠然と考えていました。

 

そのために早くから現場を見てみたいと思い、高校2年次にカンボジアに行って以来、3年次には、ネパール。大学一年生の時には、ベトナム。同年アフリカのウガンダルワンダの計5ヶ国に足を運び、「現場力」を身につけてきました。

 

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ツッコミどころ満載な今年3月、ウガンダ北部グルの村の男の子達と。

 

生まれも育ちも東京の多摩。留学もしたこともなければ、帰国子女なわけでもない。

海外経験が旅行以外ない私にとって、リゾート地とはうって違った「途上国」に足を入れることはそれなりに大きなチャレンジでした。

しかも中高6年間・吹奏楽部(マーチングではなくずっと座っている方)に所属していた私の体力はほぼないに等しく、いくら短期間の滞在とはいえども、精神的にも身体的にも過酷な環境の中での生活は辛いことも多く・・・

 

人生初の途上国であったカンボジアでは、ホテルの卵でお腹を壊し入院。(屋台じゃない)

二回目のネパールでは、現地の水か食事で激しい下痢と高熱を発症し3日間入院。ツアー半ばの一番楽しい時を病室で過ごすさざるをえなくもなりました。

(なぜかアフリカでは健康体笑)

 

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ネパール・ポカラにて高熱とお腹の下しで3日間の入院を経た念願の退院の日。

 

渡航のために自分のアルバイト代を当て、足りない分は親に借金をしてまでも現地に足を運んだ理由は、国際協力の現場を自分の目で見て、現地の人とネットや教科書を越えた国際協力の世界のつながりを、自分が現場で人と直接触れ合うことで持ちたかったから。

ただそれだけの理由で、好奇心旺盛なのか、大学生の長期休暇が思ったより長くてただ暇だったのか、とにかくチャンスがあればその探究心を生かして、現地に赴きました。

 

単純に国際協力の世界が面白くて、純粋にワクワクしていた私なのですが、「結局国際協力が好きなんじゃなくて、それをやっている自分が好きなんでしょ?」「支援とか自己満足でしょ?」と、マイナスな意見をいただくこともあり、同時に自分でも目的を見失いそうになったこともありました。

 

国際協力を行う人に対して「偽善」「エゴ」「ボランティア」「自己満足」という言葉を投げかけられたことがある方、またそのようなイメージを持っている方もいるかもしれません。

 

しかし、それらの言葉やイメージとは真逆のことを高校3年次に行ったネパールで体感しました。

 

参加したのは、現地でネパールの震災復興プロジェクトに携わるスタディツアーで、「私にしかできない支援のあり方を見つける」という目標を持ち、2週間過ごしました。

支援村の人にインタビューをさせていただくという貴重な機会をいただいたのですが、「自己満足」どころか、私は激しい「無力感」に駆られてしまっていました・・・

 

「支援をする」というなんて上から目線な考えを持っていたのだろうか、と自分にガッカリしてしまいました。

 

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ネパールの村でのフィールドワーク 

1時間以上に及ぶインタビューを行なった。

 

"タイを経由してネパール首都・カトマンズに着いてから、10時間ほどのデコボコ山道を車で駆け抜けて、やっとの思いでたどり着いた、このネパールの小さな村に住む目の前の人に、高校3年生で世界のことを何も知らない無知な私は彼に何もできなかった。"

 

のです。

 

言語も通じず、文化も価値観も異なる当事者に、わざわざ外国からきた人が支援をする意味はあるのだろうか。

 

今、まさに目の前に当事者がいるにもかかわらず、自分はなんて小さくて無力なんだと思うと同時に、「開発」や「支援」のある意味を深く考えさせられました。国際協力ってそもそも必要なんだろうか、と頭がおかしくもなりそうでした。

 

「でもきっと自分にできることがある」と思って、悔しくていろんなフィールドに赴いて挑戦してみたけれど、でもやはり毎回とてつもない「無力感」に駆られてしまい、「自己満足」なんてできるレベルまで達することなんて、全くできていませんでした。。(何かが出来ると過信していた自分がいたことにも気がつきました)

 

そんな中、私に浮かんだのは

 

国際協力って、「協力」と言えるのかな?

 

という大きな問いでした。

「協力=ある目的に向かって力を合わせること」つまりお互いに支え合う、パートナーのような存在のことを指すはずです。

 

先進国の人々のいう、国際協力(国際協力に対する解釈は様々ですが、多くの人のイメージは開発支援・援助なのではないでしょうか)に私は妙に違和感を覚え始めました。

どこか対等じゃないような気がして、「協力」関係ではないと感じたから。

 

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結局「支援者」「被支援者」の関係は越えられない?

 

事実、途上国と先進国の関係は「対等」とは言い難いです。

美化されることも多い援助業界の裏には、援助産業が存在し、貧困が是正されない理由が「構造」部分にまで侵入しているのです。先進国が自分たちの発展時に採用しなかった政策を途上国には適用したり・・・(詳しくは映画『ポバティー・インク〜あなたの寄付の不都合な真実』著書『はしごを外せ』に載っています。)

 

国の経済力にかかわらず、同じ「人」として、先進国・途上国関係なく、お互いに高め合えるようなパートナーシップを築いていくことが真の国際「協力」と言えるのではないか?と私は思うようになりました。

  

国際協力を始める前、私は「支援は素晴らしい」「寄付はするべきだ」と開発支援をどこか美化していました。

(もちろん、国際協力の世界で出会った方々は学生から大人まで、本当に尊敬できる素晴らしい人々です。)

 

だけれども、キラキラしてみえる国際協力には裏の側面があるということを、私は現場の経験や大学の授業から学び、国際協力そのものに対して懐疑的になってしまったのです...

 

では、先進国と途上国が真のパートナーとして共に発展していくためにはどうしたらいいのだろうか?

 

実は、ネパールで参加したプログラムのテーマは地震復興支援であると同時に「国際学生交流」でした。

ネパール人大学生・日本人大学生計20名による2週間の学生交流プログラムで、ネパール人学生とどんなことがあってもずっと一緒に過ごしました。カルチャーショックを受けても、言語の壁を感じても、何がなんでも。現地のフィールドワークもネパール人学生の通訳を介して行いました。

 

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2週間共に過ごした日本・ネパールの学生。 (もっと人数いました)

 

ネパールといえば「途上国」「貧しい」というイメージが付きまといますが、実際に現地の学生と触れ合ってみると「先進国」であるはずの日本人学生よりも抜群にスーパー英語が上手で...知識も豊富で...頭の回転が早すぎて会話についていけずに唖然としたことも...

 

このツアーに参加した私を含めた多くの日本人学生は、ネパールの同世代との交流を通して、「国際協力に対する考え・途上国の人々へのイメージが払拭された」と従来の国際協力の捉え方からシフトされます。

 

それは、国際協力の「支援者」「当事者」の関係が、交流した「同世代のネパール人の友達」と「日本人の私」へと変わるから。

 

人レベルでの交流だと人間はお互いが高めあえるようなパートナーとなることができ、それこそが協力関係であり、真の国際「協力」と言えるのではないかと私は個人的に思っています。

このツアーに参加して、ネパールとの繋がりを「人」、それも同世代の「友達」を通して知ることができた経験が、今の国際協力に対する考え方を構築してくれました。まだまだ勉強中ですが、大学入学前にこのような貴重な体験ができて本当によかったです。(3日間入院してたけど笑)

 

*国際協力の定義は曖昧で、まだその解釈を問い続けなければいけない課題であると思っています。よければ皆さんの意見も聞かせてください!

 

To be continued.

吉田梨乃 

私が夢を追いかける、原動力。

こんばんは、りにょ〜ん(吉田梨乃)です。

第二弾の記事は、 「私が夢を追いかける原動力」について書きたいと思います。

 

夢を持つに至る経緯には、一人ひとり異なる原体験があります。

その人の成し遂げたい夢は、 ある日突然生まれるものではありません。

 

人の価値観や夢を知った時、その人の「過去」には一体何があったのかを私は必ず聞きます。

なぜなら、ストーリーを知ったことで初めてその人の「今」を深く理解し、"応援したい"という気持ち、つまり「共感」へと変わるからです。

 

そんな私が「人権侵害のない世界を実現する」という夢を持つことになったきっかけは、高校2年生の時。全日本高校模擬国連大会への出場と、カンボジアワークキャンプへの参加でした。

 

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高校2年次、カンボジアワークキャンプにて。

カンボジア語を話してみるものの、全く通じていない様子。

 

大学生になった今、国際協力の活動をしてきて(というか自分のやりたいことをしてきたつもりだが)「梨乃って行動力あるよね」とか「意識高いよね」などと言われることがたまにあります。

 

しかし、私はその言葉に対して、いつも「そんなことない。」と答えてしまいます。

それは照れているわけでも謙虚に見せているわけでもなく、私の自己認識では自分の姿は全くの正反対だと思っているからです。

 

少し遡る高校生の時の私はというと、普通の学校生活を過ごすただのJKでした。

頭の中はいつもふざけたことと大ファンだったOne Directionのことでいっぱい。

 

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クラスメイトと。中央のダブルピースをしているのが私。(若い)

 

東京の田舎の方にある啓明学園という名の学校に、小学校から高校まで12年間も通い、ビニールハウスのような温室の中でぬくぬくと育っていました。

グローバル教育に力を入れ、帰国生が4割を占める国際的で多様性を尊重する学校でもあり、素敵な友達や先生方に恵まれ、毎日が本当に楽しく幸せな生活でした。

 

私の家は特別裕福なわけではなくても、財政面で特に苦労はしてきませんでした。

いじめを受けたことも不登校になったこともなく、「挫折」や「失敗」を味わったこともありません。

 

そんな環境を当たり前に労なくして享受した私は、ものすごく甘い考えかもしれないけれど、そんな自分をコンプレックスに思うようになりました。

 

悪く言えば、「刺激のない生活」を送ってきていたから。

いかに自分が狭い世界の中で生き、自分の意志を持たずに生活していたのかを思い知ったのです。

 

そんな歯がゆい思いをしたきっかけが、全日本高校模擬国連大会での経験でした。

優勝したらNYにいけると記載されたポスターが目に付き、もはや「模擬国連」という言葉さえ知らないレベルで「NY行ったる!」という謎の意気込みと勢いとノリで応募してみました。

 

結果、奇跡的に厳しい一次選考(選考書類の作成は真面目にやりました)を通り抜け、いきなり全国の高校生とともに国際会議を模擬する大会に出場することになりました。

初めて会う人ばかりに囲まれる中、12年間同じ学校に居続けた私は「コミュ症」「人見知り」の2つを大いに発揮してしまいました。

 

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国連大学で行われた2日間の模擬国連大会。学校での表情と全く違う、借りてきた猫のよう。(後列、右から2番目が私)

 

同じ大会に出場する周りの高校生は、名だたる進学校ばかり。

学校で模擬国連部に所属し、議論を日課としている頭の切れて経験値の高い学生ばかりでした。

(なぜ私はここに居るのだろう?と自問さえしてしまう状況)

パートナーの友達と毎日準備をして、人生で一番頭を使ったくらいの力を尽くしてある程度の自信を持って挑んだ大会だったものの、もはや彼らと同じ土俵に立つことも許されず、悔しく歯がゆい思いをすることになりました。

 

しかし、その分学んだことも数え切れないほどありました。

「How to feed the world in 2050」という題で、世界の食糧問題(食料安全保障)について議論したのですが、実際に一国の大使として国際会議を模擬する経験ができたことは、日頃の学校生活では体感ないようなことばかりで全てが刺激的で、新鮮でした。

 

この大会での出場をきっかけに、遠い世界の物事が、自分の中に落とし込めたような身近なものへと意識がシフトしていったような感覚になりました。この時私は、

 

「ああ、世界って結構繋がってるんだ。」

 

と気づいたのです。

 

特に私はフィリピン大使を担当していたので、先進国・新興国・途上国という経済発展のレベルによって直面する問題や力関係の現れを知り、どの国も満足のいく一つの「決議案」を作り上げることの困難さを嫌なほど実感しました。

 

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全国の高校生(総勢164名)との2日間に渡り、議論を交わした。

 

この大会を準備するためのリサーチ段階で、世界の現状に関する情報を多くインプットしました。その中で、「6秒に1人が栄養不足で命を落としている世界」と、「日本に生まれ労なくして得た私の恵まれた環境」のとてつもなく大きな「差異」を痛いほど感じさせられました。生まれた場所によって命の価値がなぜ不平等に扱われなければならないのだろうか。そして、自分に投げかけました。

 

「私は今後この世界の現実にどう関わっていくべきなのだろうか?」

 

大会をきっかけに自分と世界の接点を持って以来、私はそれまで興味がなく他人事のようにまで捉えていた世界の問題、そしてその解決のための手段として国際協力の世界に関心を持つようになりました。

 

自分が恵まれていたからこそ、こんなことを考える機会を得られたかもしれないし、 「挫折」や「失敗」を経験してこなかった自分に"世界の現状に立ち向かう資格などない"とさえ思うこともありました。

 

だけど、私にはどうしても許せない 怒りがありました。

私はその気持ちを原動力に国際協力の世界に挑戦している、今の自分の姿があります。

 

実は大会に参加する前の夏休みに、学校が主催するカンボジアワークキャンプに参加していました。(最初カンボジアの位置を知らず、アフリカにある国だと勘違いしていたことは秘密です。) 

 

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小学校でのボランティア。子供達と一緒に折り紙を楽しむ。(右が私)

 

参加したこのワークキャンプは、カンボジアのお母さんとのフェアトレードプロジェクトの一貫で、NPOの方々のツアーに同行して小学校で運動会や、交流を行うものでした。

 

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子供達の笑顔。Photo by Rino Yoshida

 

初めて足を踏み入れた「途上国」そして、東南アジアの世界は見るもの嗅ぐもの聞こえるもの、全てが私の今までいた世界とは異なっていました。

 

そして、この国の過去に起きた悲しい歴史も。

 

戦後70年間、平和を貫いてきた日本で行われる平和学習は、受けた生徒が「今の戦争のない平和な時代に生まれてよかった。」という結末で終わるように感じられます。

(偏った主観であったら、申し訳ありません)

 

学校の平和学習の一環として、修学旅行で広島・沖縄を訪れ、戦争体験者の話や資料館に足を運んだからこそ、戦争の悲惨さを直で学ぶことで、戦争のない平和な時代をこれからも築いていく次世代としての「責任感」が芽生えます。

それとともに、どこかそんな時代に生まれたことへの「感謝」の気持ちを、私は心の中に抱いていたように思います。

 

しかし、たった30年前に大虐殺が行われたカンボジアの歴史を知った時、

 

「果たして今私の生きている時代が平和なのだろうか?」

 

あまりにも無知であった高校生の私は、そう自分に投げかけざるをえませんでした。

 

同時に今の世界の現状をみた時、今でも戦争は絶えない国が存在し、今まさにこの瞬間も戦火の下で命を落とす人々またはその危機に追いやられている人々が存在します。

 

高校3年生の時、1994年に100日間で100万人近くが殺されたアフリカの小国ルワンダブルンジでの大虐殺を知った時も、私は衝撃を受けました。そして知ったのです。

 

「この世界は決して平和ではない。」

 

と。映画『ホテルルワンダ』の中に、有名なこんなワンシーンがあります。

 

主人公のルワンダ人・ポールが、虐殺映像を撮影するカメラマンに対して

「この映像を世界の人々がみれば、世界各国の人が救援してくれる。」と言った。

 

しかし苦渋な表情で、カメラマンはポールに向かってこう答える。

「いや、世界の人々はあの映像を観て、"怖いね"というだけでディナーを続けるよ。」と。

 

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映画『ホテルルワンダ』より。

 

戦争教育を受けた日本の中学生・高校生が「自分は戦争のない今の平和な時代に生まれたことに感謝する。」という結末のままであっていいのだろうか。

 

その先の、「どうしたら今も戦争が終わらない時代で平和を作るために行動していけるか」を考えることにあるのではないかと、私はこの時強く思いました。

 

だって、私もディナーを続けていた一人だったから。

 

自分のことだけを考え、将来の目標も何も定まらないまま、自分の意志を持たずに生き、守られた狭い世界の限られたコミュニティの中で満足し、苦労なくこの環境を享受してきたから。

 

私は、戦火の人々と同じ人間としての命を持つ者であることは変わりはないのに、なぜ、国が違うだけで一人一人の権利が脅かされる世界が存在しなければならないのだろうか。なぜ、罪なき命が失われなければならないのだろうか。なぜ、遠い出来事として私は他人事に捉えてしまっていたのだろうか。こんなにも命が失われているのに。

 

大虐殺の歴史を知り、湧いたこの 怒りの全てが私が国際協力の世界に挑戦する原動力となりました。

 

だからこそ「人権侵害のない世界を実現する」という志を持って、私はできる限りのことをしていきたい。そう強く決心しました。

 

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 ルワンダの虐殺跡地に今も残る山積みの服。Photo by Rino Yoshida

 

では、私がなぜここまで「人権」にこだわるのか。

次回の記事で深堀ります。

 

To be continued.

吉田 梨乃

 

ここから再スタート、夢に向かって。

自分への決意

 

こんばんは、りにょ〜ん(吉田梨乃)です。

 

私は現在、上智大学総合グローバル学部に通う2年生です。

高校2年生から国際協力の世界に関心をもち、様々なことにチャレンジし、活動してきました。

 

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大学1年次、ウガンダ北部の村の子供たちと。

 

昔起きたあることがきっかけで(次記事で詳しく)「人権侵害のない世界を実現したい」という信念を持つことになり、11月から国際人権NGOである Human Right Watch 日本事務局にて広報・ファンドレイジングのインターンシップを始める予定です。

 

そんな私が「新しくブログを開設しました。」と涼しい気持ちでいいたいところなのですが、実は、ブログを始めると宣言したのは半年前でした。

一度開設はしたものの連載は全く続かず、出した記事はわずか2本のみ。

 

元々、尊敬する国際協力の先輩方の発信力が高さに憧れて「自分もそんな風になりたいな〜」という軽い気持ちとノリで、ブログをなんとなく開設してみました。

当時は大した目的意識も覚悟もなく、夢も見つからず血迷っていた状態でした。

今思い返せば、特に飽き性な私はそんな中途半端な気持ちでは続くはずがなかったなと反省しながら半ば自分に呆れてしまっています。笑

 

発信することを癖付けることは、どこからかチャンスを手にしたり、応援してくれる人が増えたり、アウトプットを通して自分の学びとなる有効な手段ともなります。

そして、何よりも国際協力において大きなビジョンを掲げる中で、学生ながらも周りの人々に影響を与えられるのが、ソーシャルメディアです。私はその力を身を持って実感しています。

 

少し詳しく書くと(前回のブログでも書きましたが)

私がFacebookで自分の思いを初めて綴ったのは高校3年生の終わりかけ。

大学受験が早くおわり、入学前にネパールのスタディツアーに参加した感想を帰国後に記事として連載し始めたことがきっかけでした。

 

人前に出て目立つことが怖く、そんなシーンを極力避けながら生きてきた私には、最初は思いを記事にして発信する自信なんて全くありませんでした。

 

しかし、ある先生のサポートと小さな勇気を振り絞ってみて投稿したところ、なんと6回の連載で通算 いいね!440件 / コメント 160件 をいただくことができたのです...

 

大した実力も、肩書きも文章力もない高校生だった私が...

本当にびっくりしました。

 

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第一回目の連載記事。英語・日本語の両方で執筆し、世界中の人に届けることができた。思いもよらない反響に、指が震えたのを今でも覚えている。

 

大学入学後、高校時代に書いたこの連載記事を読んで、私に興味を持って話しかけてくれる人がいたり、発信から思いがけないチャンスもたくさん掴みました。

 

そして何よりも最近本当に嬉しかったのが、友達から「梨乃の発信を見て、勇気をもらった。私も自分の思いや経験を人に伝えていきたい。」と言ってもらえたこと。

「あぁ。こんな無力な私でも、少し勇気を出して思いを発信してみたことで自己満足にとどまらず、少しでも他の人のためになれたのだ。」と気づくこともできました。

 

まあ正直に言えばいいことばかりではなかったのも事実で、自分のイメージを誤解されることで悔しい思いや恐怖心に駆られたこともあり、色々と悩んで病んでいた時期もありましたが今はもう大丈夫!笑

 

ここから再スタート、夢に向かって。

 

でも、発信することの意義を私は「自分の夢を実現する一つのツール」として確立したいと思っています。特に自慢できる実績も経験も実力もないので、人々に勇気を与えるメッセンジャーとなることを目指して記事を連載していけたらいいなあと思っています。

 

だからこそ、今度は強い覚悟で再スタートしたいんです。慣れないことを急ぎすぎてやり始めると3日坊主になるから、ゆっくりとマイペースにやれたらいいな。(サボりすぎは禁物に。)

 

先述したように、私には「人権侵害のない世界を実現する」という信念があります。

 

将来、国際舞台で人権平等のために働きかけ、その経験を生かして日本で国際教育を打ち出す教員になりたいと考えています。(いずれ変わるかもしれないけれど)

 

「継続は力なり。」

 

飽き性ですぐに逃げる癖のあるダメダメな私に、母がよくかけてくれる言葉です。 

今度こそ、いやラストチャンスだと思って、今持っている自分の軸をぶらさずにここから再スタートし、夢に向かって一歩ずつ進んでいきたいです。

 

私の姿が誰かの勇気になると願って。

 

夢に向かって、小さなことから努力を積み重ねていく次第です。

 

ということで、良ければ応援・サポートをよろしくお願いします!(監視の意味でも。笑)

 

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高校3年次に参加したネパールのスタディツアーにて

 

to be continued. 

吉田 梨乃